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2.変革 革新と飛躍

学校として学びを支え続ける。
そして不登校生徒受け入れへ。

1976年(昭和51)に専修学校制度が発足。学校名を「島田経理専門学校」と改称、高等部を高等課程商業科、専門部を専門課程商経科として認可を受けます。商業科では簿記会計、珠算、計算実務、税法などを学び、地元にある製造メーカーなどへ就職していくことが多かったといいます。また、遠くから通う生徒のために、さまざまな形で通学のサポートも行っていました。

この頃には部活動も始まりました。専修学校や通信制高校のための「全国高等学校定時制通信制軟式野球大会」に出場するため「神宮球場を目指そう」と加盟し、学校の周りの畑や大井川の河川敷で練習をしたことも。郷土研究部として、地元の昔話を聞きに行って冊子を作ったり、古墳の発掘などを手伝った記録も残っています。

ただ、すべて順風満帆だったわけではありません。周辺地域に学校が増えたことに加え、丙午(ひのえうま)の年に生まれたこどもたちが就学期を迎えたことも影響し、1983~85年頃には入学者が激減。一時期は全校生徒64人だったこともあり、学校は新たな道を模索することを迫られていました。一時的に、社会人向けに短期の簿記の講座を開いたのもちょうどこの頃でした。

そしてほどなく「島実」は大きな転換期を迎えます。当時は、学校に行けない「不登校」が社会問題として取り上げられていました。もともともっていた少人数のきめ細やかな教育。それが「不登校生徒受け入れ」という方向へ光を当てるきっかけになったのです。
1988年(昭和63)8月には専門課程を廃止し「島田実業高等専修学校」と改称。同年10月に文部省(当時)から、高等学校卒業者と同程度であるとし、の大学受験資格が与えられました。高等専修学校の位置付けが大きく変わったことも、不登校生徒の受け入れに追い風となり学校自体が大きく変わっていきます。

不登校の生徒の多くが、学校制度そのものに馴染めないでいました。社会は成長し激変していくのに、学校は昔から変わらない。そのギャップに生徒たちは潜在的についていけず、体の不調を訴えるというケースが少なくありませんでした。しかし、そんな生徒たちも「学びたい」という想いを持っている。学校の原点である「学びたい」想いを受け入れ支えるためには、どんな場が必要だろうかと考え抜いた結果、制服を、そして校則をなくした「自由と自立」を理念とした新しいスタイルの学校が誕生したのです。

当時は、不登校の生徒を受け入れる高校はほとんどなかったこともあり、長期欠席者を推薦で1校1名と制限したものの、問い合わせは増え続けました。希望者が多くなったため1校1名の枠を取り払い、「学びたい」想いがある不登校経験者を積極的に受け入れていきました。

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